名古屋城築城

沼地

名古屋城築城のイメージ

家康は加藤清正、福島正則、前田利光、黒田長政らの西国大名を総動員して築城工事に当らせたのですが、城の大部分は名古屋台地の上に築かれてはいるものの、二の丸の北部と本丸、御深井の丸の一部は台地北部の沼地に張り出し、台地面まで高くして造られました。木材などで敷地を固めるため、大変な工事でであったといいます。

築城の手伝い

名古屋城築城が始まったのは慶長15年(1610)で、まず堀や石垣を築く土木工事から始まりました。家康は前田利光(加賀、能登)、加藤清正(肥後)、黒田長政(筑前)、細川忠興(豊前)、福島正則(安芸、備後)ら二十大名に手伝いを命じましたが、手伝いといっても工事費用はすべて大名が負担することになります。 そのため大名は莫大な量の資材、人夫を国元から持ち込まなければならず、指名された大名は相当な大藩でもやせ細るといわれました。

外様大名

築城における家康の狙いは指名した大名の財政を窮乏させる事にあり、指名を受けた大名は、いずれも以前豊臣方に通じていた外様大名ばかりでした。指名された大名の中には不満に思う大名もいましたが、「手伝いが嫌ならすぐに国へ帰って謀叛を起すがよい」となるため、しぶしぶ納得していたようです。

石垣

大名たちは石垣に使われる大石を各地から集め、そして苦心して集めた石が盗まれない様、それぞれの大名の刻印を打ちました。また、各大名の分担箇所の境界の石にも印を付けて間違えないようにしました。 現在残っている城内の石垣に刻まれた刻印は、このような理由から付けられたのです。