名古屋城の歴史

江戸時代

名古屋城の歴史イメージ

徳川家康は慶長14年(1609年)、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定しました。翌年の慶長15年(1610年)、西国諸大名の助役によって築城が開始します。石垣は諸大名の分担によって築かれましたが、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は加藤清正が築いたといわれています。そして慶長17年(1612年)までに大天守が完成しました。

明治時代

明治維新後、14代藩主の徳川慶勝は新政府に対して名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出ますが、山縣有朋が城郭の保存を決め、天守は本丸御殿とともに保存されました。明治5年(1872年)東京鎮台第三分営が城内に置かれ、明治6年(1873年)には名古屋鎮台となり、明治21年(1888年)に第三師団に改組され終戦まで続きます。保存された本丸は明治24年(1891年)、濃尾大地震により本丸の一部が倒壊しますが、天守と本丸御殿は大きな被害を受けずに済みました。明治26年(1893年)、本丸は陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮となります。その後、名古屋離宮は昭和5年(1930年)に廃止されることになり、名古屋城は宮内省から名古屋市に下賜されました。名古屋市は名古屋城を一般公開し、建造物や障壁画は国宝(旧国宝)に指定され、戦時中には金鯱を空襲から守るために地上へ下ろすなどしていました。しかし昭和20年、(19455年)5月14日の名古屋空襲により、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが大火災を起こし焼失してしまいます。

金鯱の構造

当時の金鯱は寄木の粗彫に鉛板を竹釘で張り、その上に鱗型の銅板を銅釘で止め、その銅板に薄い金の延板をかぶせ張りにして作られていました。張られた金の板は慶長大判を引き延ばしたもので、1940枚分の大判、合計で320kgもの金が使われていました。

鯱の起源

鯱は古くから中国に伝わる伝説の海獣「シビ」から転化したといわれ、「シビ」はインドの「マカラ」という神格化された想像上の動物が起源だという説もあります。当時は火災が起きてもそれを消化する方法がなく、そのため火災は人々から大変恐れられていました。そこで、泳げば大波を立てて雨を降らせると信じられていた「鯱」は天守閣の飾りとしてふさわしく、また干ばつに苦しまないように天に一番近い建物の最上部に水に縁のあるものを置いたともいわれています。